あしなが育英会 西田 正弘 先生
H15年12月掲載
あしなが育英会では、設立当初から災害遺児のカテゴリーの中に自殺を入れて支援してきました。しかし99年に発表された98年の自殺者数が初めて3万人を突破し、しかも40~50歳台の中高年が激増しているという実態に驚き「遺される子どもも増えるに違いない」と判断、以後積極的に支援してきました。しかし、99年当時はどのように支援したらいいのか分かりませんでした。現在自死遺児は全国に9万人いると推計しています。
2000年2月、10数名の自死遺児大学生にどのようなことに気をつけてサポートしたらいいのか、聞くことから始めました。彼らからでてきた言葉は「親が自殺で死んだと言えなかった」というものでした。また半数近くが親の死の現場に遭遇していました。第一発見者でした。私たちは愕然としました。
「なぜ自ら死んだの」「何が原因なの」「どうして気づかなかったのか、止められなかったのか」「あの時声をかけていれば止められたのか、親が死んだのは自分のせいだ」「私は棄てられたのか」「死んだ父親がにくい」「今までのことはみんな嘘だったの」「遺されたもう一人の親も死んでしまうの」「自分も同じような道をたどるのか」「家族と死んだ親の話ができなくなった。みんな傷ついていた」「母親は今も許せないと言っている。一方で自分も責めている」「誰にも自殺って言えない」「親や親戚に『自殺って言ってはいけない』と言われた」。このように自死遺児は「自殺って言えない」、親の死因を語れない深い心の傷があります。自殺と言った瞬間に友達(人間)関係が崩れたり、阻害されてしまうのではないかという強い恐れがあります。これは社会の目、自殺を「忌まわしい死」「弱いものの死」「身勝手な死」と見る目が影響しているからです。そして自殺を止められなかったという後悔、棄てられたという遺棄感、恨み、悲しみ、答えのない問いに終始さいなまれ、心の安定感が大きく損なわれていました。2001年のつどいでのアンケート調査では95人の自死遺児のうち32%が「親の死を自分のせいだ」35%が「遺された母親も死ぬのではないか」と思ったと答えています。
しかし分かち合いから自死遺児たちは変わっていきました。2年半で断続的に6回の集まりを持ちました。その時間を次のように振りかえった学生がいます。
「初めての分かち合いのあと、お父さんの夢を見るようになった。しばらくしてお父さんとの楽しい思い出も思い出すようになった。話すようになった。父は好きで死んだのではなく、どうしようもなくなって死んだのだと思うようになりました。海外へ行って新しい経験をしたいと思います。」
少しずつ遺児たちは自分の気持ちに向き合いながら整理してきました。一方で「そんなに簡単に整理できるものではない。ゆっくりいこう。何で死んだのかなかなか分からないと思ったら”逆にそれでいいのか”と思う気持ちがでてきました」とも言います。そして彼らは、自殺=自ら選んだ死、好きで死を選んだのではなく、追い込まれた死と考えるようになっています。日本社会のさまざま問題が個人一人に背負わされた部分もあると認識するようになったのです。
自死遺児たちのこころの痛みや傷は想像を絶するほど深いものがありますが「安全で安心できる仲間たちと、分かち合いの場を持ち、継続的なケアと周囲の暖かい見守り」があればゆっくりと回復していき新たな人生を歩み始める。今、私は強くそう思っています。