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こころのメッセージ


自傷行為

九州労災病院精神科 福田 明

H15年8月掲載

1.自傷行為とは

 われわれの日々の臨床において、自傷行為はしばしば遭遇するものです。「自らを傷つける」行為には、それがなされる状況によってさまざまなものがあります。うつ病の状態でなされる自死を志向した行動は、もっとも悲惨な自傷行為です。しかし「自殺」を直接的に意図しない自傷行為があります。文字通りに自分の身体を傷つけるわけではないが、広い意味では自傷行為とみなせるものもあります。たとえば、アルコールを繰り返し多量に飲む。経済的破綻にいたるまで衝動買いを繰り返す。ギャンブルに溺れ、多額の借金を作ってもやめない。性的放縦のくり返し。このような、当の本人にははっきりと自分を傷つけているという意識がないようだけど、端から見ると、自分が苦しむことが明らかなのに何故このような行為を繰り返すのか分からないと感じさせるものがあります。

 精神分析学の創始者であるフロイト.S.は、このようないわば了解できない反自己保存(反快楽原則的な)な強迫的な反復の事態を説明するために、「エロス(生の本能)」の対抗概念である「タナトス(死の本能)」を援用しようとしたことは有名です。フロイトとしても、広義の自傷行為の訳が自身の構築してきた学問体系のなかにうまく位置づけられないと感じていたのです。

2.自殺行為とうつ病

 自殺行為には、もちろん、うつ病に罹患していたためとはいえないものもあります。また、自殺未遂で精神科を受診することになり、その後の何度かの通院で危機的状況を乗り越えてゆけたとし、それゆえその人はうつ病に罹患していて自殺未遂に至ったが精神科での治療が功を奏してうつ病が治癒した、とはもちろん言い切れません。しかし、うつ病や抑うつ状態の治療がもっと一般化し、それこそ風邪で内科にかかるように、精神科が気安く受診できるものになれば、自殺の過半数は未然に防げるはずだ、と現在では多くの精神科医は考えています。

3.自己破壊行為と「嗜癖」

 また、多重債務(買い物依存やギャンブル)、問題飲酒、性的逸脱行為などの自己破壊的行動は、「嗜癖」という概念(考察のための鍵言葉)で、理解、説明できそうです。嗜癖とは「**中毒」と俗にいわれているようなことです。いわゆる「禁断症状(離脱症状)」が生じるようになり、病的な行動が抑制しがたくなるわけです。アルコール問題は、今は一般的な精神科治療の対象になっています(本来は、それ専用の治療構造=専門病棟が必要です)。それでも、通常は、あくまで本人に治療してゆく意志がある場合に限られます。また、アルコール以外の薬物依存の場合でも、治療の意志が本人にあれば同様の、乗り越えてゆくための治療が可能です。

しかし、本人にいわゆる「病識」がなかったり、あっても「これは自分の問題であり、問題があることは分かっている、それでも自分としては治療の必要性を感じない」と頑なだったりの場合には残念ながら、通常の治療の対象となりにくいのが現状です。また、アルコール問題以外の嗜癖的行動はほとんど精神科での治療対象になりません。精神医学的な問題というより、社会的な問題とみなされ、また、治療するというより、生活破綻からの立ち直りをいかに社会が援助するかという観点が一般的にとられる、問題領域といえるでしょう。

4.「自傷」行為のある一群

 上に述べてきた、自死を直接志向する自殺行為と、生活破綻を促進してゆく自己破壊的行動のいうなれば中間領域のような自傷行為の一群があります。とりあえず「自傷」行為と表記します。はっきりと自分の身体を傷つけるのだけれど、うつ病者の自殺行為のように「死ぬため」という目的意識に貫かれたものでは少なくともなさそうであること、および、「嗜癖」の一面はあってもそれが理解の鍵言葉にはなりにくく、また多重債務(衝動買いのくり返しやギャンブル)やアルコール問題、性的逸脱性のように社会的・風俗的な問題へと(現時点では)回収されえないこと、これらの理由にてその二群と区別可能な中間的な一群が想定できます。

さて、それでは「自傷」行為にはどのようなものがあるのでしょう。それは、手首自傷(リストカッティング)や精神安定剤や鎮痛剤などの大量服薬(オーバードーズ)です。拒食症や過食・嘔吐の食行動異常もこの「自傷」行為に入るものかもしれません。そして、食行動の問題が上の二つと重なる場合もあります。しかし、食行動異常の問題は、「自傷」行為の場合にはある、明白な自傷性、つまり自殺の可能性は、表面化しない場合が多いように思われます。以下、主にリストカッティングを中心に、この「自傷」行為の特徴を述べます。

5.リストカッティングと「リスカ」

 傾向として、10歳代から20歳代の若者、とくに未婚の女性が多いようです。比較的大量の出血を伴う深い傷を何度も負い、そのつど救急病院での傷口の縫合が必要な人がいます。また、ごく浅い、出血も多くない傷をときどき作るだけの人もいます。近年、リストカッティングは増加しているように感じます。例えば、この自傷のことを「リスカ」と呼ぶことがあります。とくにインターネット内では「リスカ」という呼び方で比較的オープンに、重い話題としてではなくやりとりがなされています。リストカッティングはひきこもりや不登校とほとんど場合リンクしており、それゆえインターネットに親和性があるせいかもしれません。

「友達がしてたから、自分もするようになった」という子もいます。あたかも、ピアスの穴を開ける感覚で「リスカ」への一線が越えられるかのようです。

6.「深い」傷、「浅い」傷

 これは一般的な傾向で、すべての場合に当てはまりはしませんが、強い衝撃を周囲の者に与えてしまうような深い傷を何度も作ってしまう場合には、境界性人格障害という性格病理がその基盤にある可能性があります。また、若年からのリストカッティングの繰り返しが、自傷の度合いをエスカレートさせ、自己を傷つける自己、罰の恐怖を克服した自己、自己の死を司る自己、痛みによる自己覚醒、出血での自己陶酔、などなどのリストカッティングでしか生じえない特別な影響が自己のありかたにおよび、やがて、たとえば自己をつねに監視し処罰する無慈悲な自己と、その強力な自己から逃れるすべがなく救済を希求する自己の深刻な解裂といったようなものが発生し、周囲を巻き込みながら次第にその者の自己のあり方が性格病理性を帯びたものになってゆくという、リストカッティングが性格病理を形成し、下支えしてしまう場合も想定されます。

つまり、「自傷」行為と性格病理の間には、どちらが先行していたのか分かりかねる場合があります。しかし、現在、増加している「自傷」行為は、上記のような性格病理が関連した、負う傷も、その病理性も「深い」ものではなく、軽くそこに入ってゆけるかのような、いわば「浅い」リストカッティングの一群と思います。

7.リストカッティングのわけ

 なぜリストカッティングをしてしまうのか、人によってその理由は様々です。冷静になってから聞くと、母親が言葉には出さずただ厳しい顔をするだけだった。母親は「あなたの好きにすればいい」としかいってくれない。母親に話しを聞いてもらえない、仕事で疲れているのは良く分かるけど…。恋人や友人との仲違いがあった。仕事がうまくいかず自分に嫌気がさしたなど。直接の引き金になった事柄は様々であり、生じた苛立ち、葛藤、自己嫌悪を鎮めるためにリストカッティングしているようにみうけられます。

このような「自傷」行為にたいし、周囲の人たちが「あてつけ」や「狂言自殺」と見なす場合がありますが、多くの場合そのような単純なものではないようです。身内の人たちが「自傷」行為を目の当たりにし、衝撃を受け、怒りの感情を抑えられなくなるのは自然なこととも思えます。身勝手な行為と感じることもあるでしょう。また、「どうして!」という問いを突きつけたくなり、さらには、「自分の育て方のどこが?」という自責にとらわれてしまうこともあるでしょう。しかし、母親に「責任」を感じてもらいたい、自分が苦しんでいるのは親の「せい」だ、などと訴えたいわけではなさそうです。もっと別のことと思われます。

たとえば、お母さんに対して、たまには一緒に映画でも行こう。そうカリカリしないでのんびり居てよ。愚痴ってもいいのに。お母さんががんばっているのは分かる、でも自分もまたがんばってると思う、そこのところをもうちょっと分かってほしい。学校ばかりが人生じゃない、少々まわり道してもぜんぜん平気、無理して性格ねじ曲がっても良くないし…、そうじゃないかなあ、ちがうかなあ、やっぱりなんとしても学校には行くべきかなあ、どう思う…。などなど、とにかく思春期特有の葛藤があり、仕事に母親を奪われる不安(または資本主義的な疎外の感覚)、そんなことに脆くもつまずく自分や甘えている(と自分自身が感じる)自分への自己嫌悪などが苦しいほど胸に詰まってあるように感じます。

8.リストカッティングやひきこもり、その内的な減圧を模索してゆくような感覚?

 これらは、あくまで臨床の場で接してきてそんな風に感じることが多いというだけであり、だからあくまで表面的な理解にすぎないものです。本人は、自分の未来や未来に向けての歩く速さを模索しているといえるかもしれません。極論ですが、引きこもり、不登校も無駄になることはない。少なくとも無駄にならないようにすることはできる。そんな風に思って、ときに寄り添うように、ときに友達のように、黙り込み威圧してしまうのではなく、また情けないといらいらしたりせず、すこし脳天気な楽天性でもって、しかしたまにちょっとシリアスに親自身の人生を語ったりしつつ、基本的にはあせらず、あきらめず見守っていってもらいたいと感じます。たぶん言うは易し行うは難しですね、しかし、精神科医からの家族指導はいつもそんなものなのです。

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