当事者の立場からIさん
H28年11月掲載
僕が薬物に手を出した時から今まで、そして、これからのことを、お話しさせていただきます。
僕が薬物に手を出したのは36歳の時でした。その頃、一緒に暮らしていた彼女との生活に疲れきっていました。同じ頃に知り合った人が、覚せい剤を使用していて興味を持ち、「やってみたい、覚せい剤を使えば、もしかしたら今の状況から解放され楽になるんじゃないか・・・」と思いました。
薬物を使用し始めると、僕の行動がおかしいと感じはじめた友人達が離れていき、気づくと周りには薬仲間、売人、ヤクザだらけになっていました。彼女とも一緒に使用するようになり、事態は最悪な方へと向かいました。薬を使用し、1年くらい経った時、逮捕されました。拘置所で3ヶ月間生活をし、執行猶予で出ました。
当時は、ダルク(特定非営利活動人DARC)やNA(ナルコティクス アノニマス)、その他、薬物を断ち切る方法についての情報もなく、「依存症」という言葉も知りませんでした。拘置所を出た翌日には仲間のところへ薬をもらいに行き、使用しました。帰る場所はあっても、友だちもおらず、居場所がなく、とても孤独で「もうどうでもいいや」という気持ちしかありませんでした。その後、薬を使い続けた結果、2ヶ月でまた逮捕され、何が何だかわからないまま、矯正施設に移送され収容されました。
GID(Gender Identity Disorder:性同一性障害)として社会にいた僕は、周りに恵まれていたせいか、それで生きづらさを感じたことはありません。矯正施設へ入ってから、初めて生きづらさを感じました。そこは、女性だけの施設だったからです。男性と同じ名に改名をし、立ち振る舞い全てにおいて男性的だった僕は、処遇の先生たちから特別に厳しく扱われました。時に、職員から差別的な暴言を吐かれ、人間相手じゃないような態度もされました。それでも、懲罰が怖くて言い返せませんでした。この時期は「もう好きにせ~や」と投げやりでした。
苦しい思いが続いていましたが、そんな時薬物依存離脱指導を受けることになりました。そこで初めて「依存症」という言葉とそれは病気であるということを知りました。最初に刑を受けた時に「誰か教えてくれたら良かったのに。」と思いました。
同じ頃、「夢をかなえるゾウ」という1冊の本に出会いました。そこから仏教に関心を持つようになり、五木寛之さんの本などを読むようになりました。そこで、これから人と関わりながら、自分の人生を正しく歩んでいくためには、知恵が必要だと感じるようになり、自分を見つめ直すようになりました。僕は「出所後すぐに仕事をしないとダメになる」と決心し、仮出所をしました。矯正施設での経験から人間不信という大きな問題も抱えて帰り、未だに治っていません。
でも、仮出所後、保護観察所を通じ、M建設のY社長と出会うことができました。Y社長は僕の話しを一通り聞くと、職業訓練という形で素早く現場に入れてくれました。同じ頃、担当になった保護課ケースワーカーの方が、とても親身になって話しを聞いてくれ、本当に心の拠り所になりました。
訓練が始まって2ヶ月が過ぎた頃、内科の治療を開始し、医者から聞いていた以上に副作用が激しく、苦しみ、薬物の再使用をしてしまいました。
担当のケースワーカーさんに薬物への渇望がひどいことを話すと、保健師と一緒に訪問に来てくれました。毎日、苦しい気持ちでいることを正直に話したところ、その場で精神科の病院に連絡してくれ、受診するよう励ましてくれました。病院の主治医の先生から、外来からの断薬プログラム参加を認めてもらい、それから週に1度通っています。そこにいる仲間とつながり、支えられ、今では仲間たちに必要とされ、それが今の僕自身の支えとなってくれています。
仲間たちと話しをする中で感じたことは、もっと薬物専門の病院が増えてほしい。言いっぱなし、聞きっぱなしだけじゃない場所がほしい。それともう一つ、あと1歩踏み込んで、真剣に相談にのってもらえる相談員を増やしてほしいと願っています。依存の問題を抱える人と関わりを持つことは、とても難しいことだと思います。ですが、信頼のできる、道しるべとなる人が必要です。
僕の今後のことですが、「プログラムを続けながら仕事をする」というのが目標です。
新たなつながりを持ち、居場所を見つけ、もう1歩前進していきたいです。ここから先は、Y社長が僕にとっての道しるべだと思っています。少しずつ、1歩ずつ踏み出していきます。